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文章のわかりにくさについて (2004/05/14)
僕の文章は「わかりにくい」とよく言われる。確かにそうだ。自分で読んでもそうだ。特に、職業的研究者を目指すのであれば、文章にわかりやすさは求められてしかるべきだし、基本的に、わかりやすい文章を書く技術を持ちたいと思う。そのために、書く訓練をしたいとも思う。

だが、そこに僕は「思想の問題」が含まれているのではないかと思っている。

確かに、事実として僕の書き方はわかりにくいと思うし、それは自覚しているつもりである。それを直そうと努力しないならば、僕の怠慢であると言ってもよい。読者が理解できるような表現方法と技術を、僕は身につけるべきなのである。

しかし、そもそも文章が「わかりにくい」ということはどういうことか。それは、文章の読者が、「理解しにくい」ということである。そして、それには2通りの可能性があり、得てしてそれらを混同する心性が読者にあるのではないだろうか。その2つとは、
・書き手の文章技術として、文章がわかりにくい場合。つまり、書き手側の責任。
・読み手が、その文章を読むことで、自らの特権構造を暴かれることを怖がって、「文章を理解したくないから文章がわかりにくいと言っておくことにしておく」という場合。つまり、読み手側の責任。
である。

つまり、「書かれた文章がわかりにくい」という言明には、文字通り「わかりにくい文章」であるという指摘と、それとは位相を異にする、「読み手側が、その人の特権を暴かれるようで都合が悪くなるから、わかりにくい」の、2種類の可能性がある、と言っているのである。

そして、読み手側は、本当は後者なのに、前者であるかのごとく「文章がわかりにくい」と言うのだ。

僕が言っているのは、後者が倫理的に問題である、といったことではない。もちろん、そのことも問題かもしれない。が、さらに問題だと感じるのは、「後者であるにもかかわらず、前者のふりをすること」なのである。

そこでは、読み手の特権構造が都合よく隠蔽されるのである。

かつて、リブ運動の先導者であった田中美津は、「わかってもらおうと思うは乞食の心」と言った(『いのちの女たちへ』)。つまり、男にわかってもらおうとする心それ自身が「腐っている」と言いたかったのではないか。しかし、逆説的だが、男は、この田中の主張を、砕身の覚悟で、からだいっぱい引き受けなければならないのではないだろうか。そしてそれは、「女を理解してあげる」という態度から脱却しながらも、女の主張を引き受け続ける、すなわち、自ら差別者としての位置を強烈に自覚することではないだろうか。

読み手はまずうろたえなければいけないのだ。何に?都合の悪い文章、読み手の特権構造を打ち破ろうと介入する力に、身悶えなければならないのだ。僕の文章は、現実を、読み手が居直っているであろう構造を、撃っていくだろう。読み手は、からだいっぱいで受け止めてほしい。僕自身も、力を振り絞って、あなたを、そして僕自身を揺さぶり続ける。現実という政治的な特権構造に、介入していくために。

そのことを踏まえたうえで、僕は、技術的に「人が読んでわかるような文章」を書いていきたいと思っている。後者の意味で「わかりやすい」文章を書くことは、この不正義な現実でよいことを、暗に認めることになるのである。





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