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アイデンティティ? (2004/05/16)
 最近でもないのですが、アイデンティティをどう捉えるのかについて、考えないといけないなぁと思っています。

 ご存知のように、この社会においては、障害というものをマイナスと捉えるのが支配的な考え方です。どうしてこのように捉えられるのかについては、さまざまな意見がありますし、僕自身もそれなりの分析はあるのですが、ここではとりあえず置いておきましょう。

 けれども、そのような考え方が主流にあっては、障害者はこの社会で気持ちよく暮らしてはいけません。そこで出てきたのが、「障害を肯定する」という戦略です。「障害のある自分を好きになること」によって、その人本来の人間性を回復しよう、という戦略なのです。

 この戦略のよいところは、従来の支配的な価値観、すなわち「障害=マイナス」と捉える価値観から抜け出すことができるということです。それによって、障害に与えられる価値観を、相対化することができます。話は飛びますが、知る人ぞ知る「だめ連」なんていうネットワークも、こうした戦略に立って社会を見つめ直そうとしていると思われます。

 ところで、障害って本当によいものでしょうか?

 僕は、障害を「肯定する/否定する」という分け方においてものを考えれば、必ずそこにぶちあたってしまうと考えます。

 また、「その人本来の人間性の回復」とは、何でしょうか?

 僕は、本来の人間性が「ある/ない」という分け方でものを考えてはいません。大事なのは、そのようなものを前提として話をすると、必ず最終的には「ある/ない」の水かけ論で終わってしまう、ということなのです。

 そもそも、障害者は、すべて「障害のアイデンティティ」とでも呼ばれるようなものを、持っているのでしょうか?あるいは、持つべきなのでしょうか?また、「障害のアイデンティティ」を前提に話を進めるということは、どういうことなのでしょうか?


 ここで、2人の人に登場願うことにしましょう。

 経済学者であるアマルティア・センは、社会的アイデンティティですら与えられるものではなく、合理的に選択が可能なものだと主張します。彼は、アイデンティティを与えられてしまうということは、その人の生き方の幅、自由を制限してしまうことになる、と言います。そして、僕は彼が他のところで言っていることから、そうしたアイデンティティが理性的に選ぶことができるような社会こそが、まともな社会だと言いたいんだろう、と思うのです。

 つづいて、比較文学研究者であり、去年亡くなったエドワード・サイードは、心理学者のジクムント・フロイトを引きながら、「ユダヤ人のアイデンティティ」を分析し、次のように言います。すなわち、アイデンティティというものは、それ自身だけでは考えることができないということです。


 この2人から、僕たちは何を学び取るべきでしょうか?

 「障害を肯定する」という戦略すら、「アイデンティティが実態的に存在し、障害者は実態として障害のアイデンティティを持っている」ということを仮定してしまっているような気がするのです。

   このように書くと、「お前は障害のアイデンティティがないと言っているのか」という意見を持たれる方もおられるでしょう。注意していただきたいのは、僕は「そんなものはない」とは言っていないのです。「障害を肯定する」戦略が、障害のアイデンティティを前提にしてしまっているということを指摘しているのです。そうした考えの枠組みに乗 ってしまうことは、センに言わせれば、結局障害者の生き方の幅を狭めることになる、ということになるでしょう。サイードなら、障害のアイデンティティと言っただけでは、何も言っていないことと等しいとなって、それを肯定したり否定したりすることも、考え得ないと言うでしょう。

 ここからは少し学問的なことになりますが、センの分析枠組みと、サイードのそれとは、実は似通っているのではないかと思っています。センは近代経済学の「普遍性」を批判し、サイードは西洋中心主義の「普遍性」を批判したわけですが、そこからそれぞれに、新たな普遍性、「批判的な普遍性」へと進んでいるように思うのです。それは、文化相対主義ではダメだ、というスタンスに現れていると思います。そして、おもしろいことに、文化相対主義は、どこか「固有のアイデンティティ」というものの存在を前提にして、議論をしているように思うのです。

 再度誤解のないように言っておきますと、僕は「固有のアイデンティティなどない」と主張するつもりはありません。ジョン・ロールズが念頭に置いた「無知のヴェール」に覆われた自我という仮定を、むしろマイケル・サンデルが「負荷なき自我」と批判したのは、妥当であると思います(サンデル自身の議論には、乗れないのですが)。そうではなくて、「固有のアイデンティティがある/ない」という枠組みや、「固有のアイデンティティは固有の文化に付着している」といった議論の前提には、僕は立たないし、立ち得ない、と言っているのです。

 「批判的な普遍性」から、新たな社会規範、公共性に開く議論を、早急につくっていく必要を感じます。そして、手垢にまみれただけではなく、毒すら上塗りされた感のある「正義」ということを、真剣に考えていく必要があると思うのです。「9・11以降」によって、どこか揶揄の対象にすらなった感のある「正義」を、新生させなければならない、と思うのです。どこか暴力的なにおいのする「正義」から、他者への応答=責任を出発点とする「正義」へと転換させるために、考えをめぐらせなければならない、と思っています。





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