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論理の限界を超えて(2004/06/06)
1.論理の復権

 障害者の世界にいると、「親しくすること」や「善意」や「優しい心を持つこと」、すなわち「共感」といったことが称揚される。いわく、福祉は心の問題だと。そして、感性の問題でもあると。「障害者といっしょに地域で暮らしたい」という感覚こそが、助け合いの精神を醸成させるのだと。そして、そうした世界では、健常者も「解放」されるらしい。

 何を寝ぼけたこと言ってるんだ、と思う。福祉は心の問題で、感性の問題だって?こんなことは、ウソなのである。福祉とは、制度の問題で、論理の問題なのだ。

 誰もが生きたいと思う。固有の、かけがえのない生を、傷つけられることなく生きたいと願う。また、人間である以上、人間として尊厳を持って生きたいと願う(これは、逆説的だが、いま「死にたい」と思っている人ほどそう願っているに違いない)。そして、そのためには、まずは生物学的生存を確保しなければならない。

 そして、それを実現するには、社会的分配が必要なのである。社会的分配とは、平たく言えば財の強制的な移転のことである。そして、理にかなった分配のあり方とは、まずは全世界の人間が、生物学的生存を保障されること、と言ってよいだろう。その人の社会的な貢献の度合いや、能力の多寡によらず、である。生存のための必要こそが、最低限の福祉の根拠であるべきなのである。そして、それを強制的なメカニズムにするには、何らかの政府機構の下(僕は、世界政府でよいとする立場だ)で制度化されるべきなのである。このように考えると、福祉とは、生存の平等な保障を根拠に、論理で正当化されるべきものなのである。

 さて、それでは、なぜ主に福祉の担い手たちは、福祉を心の問題、助け合いの問題、ちょっと手を貸すという問題に仕立て上げるのだろう。どうして、論理は人気がないのか。

 それはまさに、論理が強制力を伴うからなのである。感性の入る余地を与えないからなのである。そして、僕はこのことを、むしろ肯定的に捉えるのであるが、それでもなお、それが気に入らないと強弁する者は多数存在する。

 それは、どこかで福祉の担い手たちが、無自覚に優越者になりたいからなのである。論理は、そうした気持ちを「冷淡」に打ち砕く。だが、考えてみよう。福祉の担い手たちの「暖かい」気持ちこそが、分配が必要な者にとってはどれだけ冷淡な言明になり得るのかを。

 論理とは、その筋道さえ通っていれば、誰もが首肯せざるを得ない。それは、思いの違う2者(以上)があるとき、1つの民主的な解決手段になり得る。怨念や恨みといった気持ちや、暴力や専制なども解決手段であろうが、より世界に開かれているという意味において、論理は対立における解決手段として、非常に優れたものなのである。

 そして、論理は、気持ちに居直るという態度を許さない側面を持つ。正確に言えば、「論理的に語るのは苦手なので、気持ちを述べる」といった言明が、そしてそれこそが、答えの出る問題をわざとはぐらかして、あたかも答えがないように見せかける。最も質の悪いものになれば、自らの気持ちしか語らない。そして、それを「答え」に持ってくるのだ。論理的に演繹された答えでは、自らの居心地が悪くなるから、そうした態度を取るに過ぎないのである。

 助け合いだけで語られ、制度のまったくない世界…これは、障害者にとっては悪夢の世界である。なぜなら、助け合いをしたいものだけが助ける社会では、障害者の生存は、「助ける者」の一存にかかっているからである。要は、気持ちが変われば援助しなくていい、と言っているのと同じなのである。そこで、「みんな直接助ける義務がある」と述べるのは、気持ちの部分における強制である。これを「ネオ・ヒトラー」と呼ばずに、何と呼ぼうか!もしくは、そんなふうに思えないのがわかっていて、自分だけ助け合いの中に入って気持ちのよさを享受しているかなのである。そのような言明を行うことによって、「いい人」であるという自己証明をしたいだけなのである。この種の人間を、「新たな植民地主義者」と呼ぶのは、非常に的を射た表現であるように思う。

2.「論理的なるもの」に対する批判

 しかし、そうした論理主義に対して、当の障害者や、女性など少数者が、これへの批判を試みたのもまた事実である。こうした論理こそが、健常者や男性にとって都合のいいものだという主張である。また、論理を語るというその態度や、そうしたこと自身が、体制に迎合する象徴なのである、という主張である。論理を語ることへの欲望が、すでに男根をあらわすのであり、それは内なる気持ちの発露を根本から押さえつける形式なのである、という批判が、とりわけ第二波フェミニズムの主張したことの1つである。

3.批判を超えて〜批判的論理主義の可能性〜

 この批判は、ある意味正しい。が、僕は全面的にはこれには乗らない。だが、ある部分では正しいと思えるこうした主張から汲みだすべきものはある。それは何かを考えることによって、「論理=普遍的なるもの」という思考から、さらに一歩進めたいと思う。

 僕が主張したいのは、至って単純なことである。すなわち、「論理的に考えうるものは、論理的に考えよう」ということなのである。まさか、この時代になって「論理<帝国>主義」なんていう間抜けな主張ではない。そう考えると、上のフェミニズムや障害者からの批判を、僕は次のように捉える。つまり、「論理は、その時代その社会によって、ある偏向を強いられやすい」というものである。言っておくが、これは論理に内在するものではない。本来、論理の外延に属するものが、あたかも論理に内在するもののように語られているだけなのである。

 これに関して、デイヴィッド・ヒュームは、重大な見落としをした。彼は、「事実命題(「〜である」)から価値命題(「〜べし」)は導けない」と論じた。しかし、彼はもう少し慎重になるべきであった。

 言うまでもなく、私たちが生きる社会としての現実はある種の<事実性>を帯びる。これを「社会的事実」と呼ぼう。一方で、「地球は太陽の周りを1年かけて公転する」というような、人為的ではない事実がある。これを「不変的事実」と呼ぶことにする。

 この用語法からわかるように、社会的事実は、変わり得るのである。例えば「天皇は日本国民の総意に基づく象徴である」や、「自衛隊は軍隊ではない」などの「事実」は、変わり得るのである。

 そして、こうした、変わり得る事実、すなわち社会的事実は、価値判断とは不可分の関係にあるのだ。

 変わり得る社会的事実を変えているのは誰か?それは、「それを変えている人が特権を受けるような人」なのである。そして、それは、とても論理的な領域とは程遠い。彼らは、むしろそこに論理を入れないことによって、特権を維持しているに過ぎないのだ。「特権に論理はいらない」とは、そのことだ。

 だとすれば、私たちはそうした特権に常に敏感になり、そこに論理を注入していくことによって、特権を打ち砕かなければならない。これは、もしかしたら私たちの特権構造自身を問題にしなければならないかもしれない。これは、しんどいことだ。しかし、しんどいことを含めて、私たちは自覚しながらそうした特権構造を暴いていかなければならないのだ。僕が、あなたが、無自覚に享受している、特別の居心地のよさを。

 ここにきて、フェミニズムや障害者が批判した「論理の持つ危険性」を、次のように解することができる。たいてい、社会において、論理は一部の者が有するものだと言われてきた。しかし、しばしば社会的事実は、「論理の欠如」こそが構成するのである。だからこそ僕は、男根という「論理」ではなく、男根という「妄想」、「幻想」こそが、問題なのであると解釈するのである。

 何が論理で、何が論理ではないかということを見抜く力こそ、いま求められているのである。そして、それは「論理のゴリ押し」を意味しない。むしろそこで要求されているのは、社会的事実と価値観を切り結び、価値の源泉を問うていく「批判的論理」なのである。

(価値の源泉の内容か、それともそれを信じることかについての問いかけは、小泉義之のエッセイ「知から信へ」が参考になる)






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