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なんであってもよいというわけではない〜介助の根拠に関して(2004/06/20)
 介助は必要に応じて提供されるべきであり、それを特定の人だけの負担にしないことが正義とされるなら、社会的分配の機構を通して有料にすべきだという、基本的にはそれだけの退屈な主張がある。その主張は、人が生きているだけでよいことであれば、そこから論理的に演繹されうる。

 ただ、一方に、介助は、その人といて楽しいから入るという「自発型」の主張があり、また、だからこそ有料の機構は必要ないという主張がある。

 ここで検討したいのは、そのどちらでもない主張、つまり、「介助の理由は何であってもよい、とにかく入ればよい、どうして理由を一義的なものにしなければならないのか」という主張である。そして、この立場は、比較的穏当な立場のようにも思えるし、その人がよって立つだろう「寛容性」という価値に対しても、一見素直なように思える。

 しかし、こうした立場自体が、メタ的な立場ではあっても、やはり何らかの立場には与していると言わざるを得ない。その意味において、この立場の人もやはり「調停者」ではなく「論争者」であることを免れ得ない。だから、この立場の人が他の立場の人よりも優位性のある主張であることはそれだけでは言えない。

 けれども次に、この穏当な立場は、介助が有料か無料かという問い、あるいは介助の根拠づけに関する問いを、中身はどうあれ、事実上とりあえず調停しようとすることになる。そうした態度は、寛容というよりはむしろ傲慢とも思える。

 そして、この立場はたいてい、いくつかの主張の中身はどうあれ、並存させようとする。つまり、有料か無料か、必要か楽しさかということよりも、それを当の本人が信じていればそれでいいと言う。内実や根拠づけよりも、信じるか信じないかはその人の内面の問題に帰着させられてしまう。私は福祉の根拠は論理的に演繹されうるとする立場だが、それとは逆の主張をする者よりも、「寛容」だとされるこの立場の者のほうが、「根拠の吟味をしない」という点において、より悪質であると感じられるのである。

 この「寛容」な立場は、手続き的な民主性を標榜する。そして、どちらか一方に偏ることは、思想の多様性を認めないことになるという。しかし、それはどうだろうか。私が思うに、それは大事だが、それだけでは多様性は尊重されない。現に、有料か無料か、また、介助の位置づけについて論争があるのである。そして、「決着がつかない」という状態自体、介助の根拠をうやむやにしてしまうのである。だから、具体的な関わり方に関しては多様であっていいと私は思う。ただ、介助を行う根拠は、論理的に確かなものの方がよい。それでも、「そんなふうに一義的に決めてしまっていいのか」という主張には、こう答えよう。「手続き的な民主性は、なぜいいと言えるのか?」と。そして、「手続き的な民主性、これは寛容な立場であるとは確かに思うのだが、それは、共生共存していくための正義の像を求めるための手段ではないのか」と。

 ある対立が起こっているとき、それを「解消」することと、「解決」することは根本的には異なる。解決のためには、むしろ私は論争しなければならないと思う。「寛容」だけでは、両者の主張―介助は有料にすべきか、介助の根拠づけをどこに求めるべきかという規範的な問い―は分割されたままなのである。それは「解消」にすらならないのかもしれない。多様性の尊重という甘い仮面をかぶった言い草は、その実そうした立場の者が意図しようとはしない、分割の固定化をもたらしてしまうのだ。

 (参考 立岩真也「信について争えることを信じる」





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