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私の24年 ―感じてきたこと―
1)幼児期まで(〜79)

 私の誕生に関していえば、私の姉が産まれる時のミスもあり、両親は焦っていたと思われる。即ち、私には姉がいたが、この世を3日と見ることなく死んでいったのである。その2年後、生まれてきた私の首にへその緒が巻き付き、仮死状態になるとは、何という運命の悪戯!その結果、奇跡的に生還した。先天的な脳性麻痺という「障害」を持って。
 親は、2才までは私を病院にまわしていたようだ。でもね写真を見ると、介助はあるといえ、小さい体、小さい足は大地を踏みしめちょこんと立っていた。
 2才になると、障害児ばっかりの幼稚園に、バスで1時間30分かけて通っていた。もちろん親同伴。そこでは機能回復訓練が主で、遊んだりする時間は少なかったと記憶している。そんな中からでてきたのは、障害児を抱える親の交流である。子供の方は、あまり遊ぶこともなく、親や保母、先生の思惑通りに暮らしていたと思う。親も、「障害」を持つ者とつきあって2,3年余り、少しでも子供の「障害」を軽くすることに必死だったのかもしれない。
 家の近くで友達と一緒に遊ぶこともなく、家では、親の意図もあったのかもしれないし、ぼくの知的好奇心からかもしれないが、漢字や、計算に興味があったのを覚えている。卒園のとき、先生が、漢字の偏とつくりの書いた手製の木のブロックをくれたのを覚えている。それでずっと小1,2の頃は遊んでいた。あまり活発でもなく、引き込みがちな性格はこのころから変わっていない。その頃から、「障害者」でもがんばれば、「健全者」と張り合っていける、と思わされていたのかなー?

  2)養護学校時代(79〜88)

 そんな中、友達(単に親同士が仲がいいだけという人もいたが)のほとんどが養護学校に行く姿勢でいた。進路について親に決定権があるのもどうかな、と思うのだが、奇しくも79年、養護学校義務化の年に、入学したのである。

  2)-(ア)小学部時代

 低学年の時はあまり覚えていないが、ちょうど母親が弟を出産するときと重なっていたので、複数担任(注:児童生徒の人数が少ないために、こういったことが起こる。小1のときは確か、児童9人に対して、先生が3人だった。)の1人が家に来て、自転車に乗る練習をしていた。体調が悪かったこともあり、学校は休みがちだった。学校は、上記の幼稚園と隣で、やはり1時間半通学。登校すると、訓練と遊戯のようなもので終わる。私の場合はそれに加えて国語、算数をしていた。私の学年にはそのような「学習」をする人がいなかった。(ほとんどが、身体障害と知的障害の重複)ので、一つ上の学年に混じって授業を受けることになる。だからどちらかといえば一つ上の学年との方が仲が良かった。ちなみにこの頃はバギーにのっていて、校内は歩行器を使用していた。
 中学年の時、私にとって大きな異変は、歩行器をとったことである。もちろんその頃は何も使わずに歩けてうれしかった。訓練が報われた、と本気で思ってた。世間に迷惑をかけないように教えられてきたので、「自由」を両手に受け取った気がした、とその当時はそんなふうに大げさには思っていなかったけど、養護学校の中でも「健全者」に近い歩き方をする人や、スポーツタイプの車いすに乗って、校内を「暴走」している人は親、教師、そして児童生徒の間からも一目おかれていた。
 高学年になって変わったことは、交流学習と算数の進度である。初めての交流学習(以下「交流」と略す)は地域の小学校の文化祭だった。はじめは行くのは嫌だった。大きな不安を抱えていった。確かに不安は拭えなかったし、健全者の集団に入っていくのは今も勇気がいる。交流という形態ではなく、はじめから地域の学校に行っていれば、歩行は不可能だったかもしれないが、確実に社会性は身に付いていたと思う。算数の方は、6年のはじめに小学校の課程を終了した。それからは、つるかめ算、旅人算などの私立中学の入試に出てきそうなことや、負の数、方程式などの中学レベルのことをやっていた。私が数学に興味を持ち始めたのはこの頃である。
 このような経緯を経て、中学部へ進むことになる。

   2)-(イ)中学部時代

 中学部でも、私は、「歩行可能で学習能力のある」障害者の「エリート」として「活躍」することになる。(注:この1文の「 」はいささか社会に対する皮肉の意味がある)。毎週土曜日は交流で、地域中学に行っていた。中学2年の時に、それまで養護学校に勤務していた先生がたまたまその中学に転勤することになった。私はその先生(♀)に憧れていたので、土曜日に会えるのが楽しみだった。しかしクラスでは、話しかけられても何を話して良いのか分からない状態で、楽しくなかった。クラスの子は、興味があるのか、話しかけてくれたのだが、その頃の私の意識として、やっぱり、「友達になって欲しいけど、そこまで行く過程が怖い」というのがあったと思う。今もぬけ切れてはいないが……。
 そんなこんなで、3年生を迎えることになる。みんな「重度」で肢体障害と知的障害の「重複」が多く、当然のように高等部や、「能力」のある人は、全寮制の養護学校に進学していく。そんな中、今ではどちらからの働きかけか忘れたが、担任との話し合いで、地域の高校を受ける決意をした。そこは障害者受験の前例も2例あり、比較的「受験」に際してはオープンな感じを受ける。しかし、自分の中では完璧に「能力社会」を肯定していて、他の「障害者」とは「違う!」と思っていたことは事実だし、そういうふうに思わされていたのは悔しいなと思う。
 ここまでで思うに、親にとって養護学校とは、「障害」を「治療、軽減」しながら、「教育」を保障してくれる場だったのではないだろうか。それは、「歩けるようになったから訓練は必要ない」というところから私なりに推測した。でも、私なら、もし「『障害』は『治療』して『軽減』するべきだ」と思っていたら、全国を探しまくってでも、病院を併設している学校に行かせると思う。その方が筋論として正しいと思う。だったら何故、「半分」は地域に残したのだろう、と思うと、不思議でたまらない。
 幸か不幸か合格してしまった。ここから本当に健全者の社会に浸ることになる。

3)高校時代(88〜91)

 初めての健全者の世界は、とても楽しめるものではなかった。やはり、「障害者」=「かわいそうな人」という自意識を捨てきれずに、3年間過ごしていたので、楽しむべき事も楽しさが半減していた。
 入学式の後のクラス入り、自己紹介でも、緊張してしまった。その時の担任の補足で、「野崎くんは入試の成績が3番でした。」と言うものだから、自分もそんなこと知らないし、予想外のことを言われて驚いた。そこから変な関係が生まれていく。私は試験前になると利用されていた。そういう関係だったのだ。
 遠足や合宿などにも行ったが、あまり関係ができずに、面白くなかった。援助してもらっても、それだけの関係で終わっていた。
 唯一楽しかったことといえば、クラブ活動だ。将棋部に入った。中学での交流の時、よく話した2人のメンバーと一緒に。顧問の先生が障害者(もちろんCPではないが)で、色々先生から教わった。
 高2で理系クラスに入り、物理は難しく、おもしろかったが、他はあまり興味もなく、ただただ受験の準備だけをしていた。数学も、分かってしまえば後はテクニックの習得だけで、あまりおもしろくなかった。
 高3も理系。男41人、女5人。いちばんの思い出は、合唱コンクール3位。男性の力を見せつけた?感じだった。(普通は女性が多い方が圧倒的に有利)。
 11月頃から、みんな推薦入試で大学が決まっていった。よいことだが、あまりおもしろくない。この近辺の国立大学を目指しているのが私だけで、無謀と思われていたことだろう。
 試験はセンターで失敗、2次試験は結構できたが・・・。
 その翌日は卒業式で、神戸大出身の先生から試験の出来を聞かれ、たじろいだ。しかも、代表として、校長から卒業証書を受け取った。見せ物的?で嫌だった。その後に、クラブの顧問に呼び出され、これから私自身の障害者としての生き方を問われた。私自身あまり考えていなかったし、答えられなかったのだが、自分の人生なのだから、自分で決めないといけないな、と思った。まあその先生も「健全者」の中で生きてきて、相当「ガンバリズム」が浸透してる人ではあったけど、その当時は頑張らないといけないと思うことさえしなかった部分もあり、本当に流されて嫌な気分だけを味わった高校時代だったと思う。
 予想通り大学は落ちた。

  4)浪人時代(91〜92)

 初めて、行く場所がなくなった。どうするか。迷ったが、1年は家にいることになった。やっぱり、障害者が予備校に行くことを自分自身変に思っていた。障害者が大学にいくための勉強をすることはおかしい気がして、習いには行けなかった。行ってればよかったなと、今にして思う。行って、人間関係を作ればよかった。ちなみに受験勉強はあまりせず、好きな数学のマニアックな月刊誌を買って、考えて楽しむという日を250日は続けていた。
 結果として、どこにも行かず、神戸に受かったのだが、何かもう一つ釈然としない。人間関係が希薄な1年だった。

  5)大学に入って、そしていま

 「大学」といえば、イメージとして、研究、自由というものがあった。しかし、それは健全者の中にあるものと思っていた。私という障害者の「自由」とは何か、考えざるを得なかった。
 電車とバスという公共交通機関に乗って通学するのは生まれて初めて。しかも、親が付き添いで大学まで送り、家に帰り、また迎えに来るというものだった。一言つけ加えると、養護学校時代に、付き添いなしで行ったことはあるものの、それ以外は親が付き添っていた。親の交通費も馬鹿にならない。
 なぜ親が付いて行かなければいけなかったのだろう。ずっとこれまで親がつきっきりで、実は浪人中に、初めて近くの商店街に一人で行ったくらいだ。危なっかしかったのかな。だからせいぜい世間を自由に見てきたのは4,5年。高校の時もやっぱりあまり遊びに行かなかったし、ずっと親離れ、子離れができなかった。そんな中、大学に付き添うことも、その当時はあまり抵抗がなかった。親の時間がつぶれるのはすごく気になったが。
 7月くらいまでは、そういう中で講義は「普通に」受けていた。ある夏の日、忘れもしない「社会学」の講義後、障害者解放研究会のメンバーに声をかけられた。「一度BOXに遊びに来ませんか」。それが私の大きな転換期となった。
 私が行ったとき、彼らは「養護学校義務化」について議論していた。「養護学校はダメだ」という声が印象に残ったのを覚えている。
 養護学校卒業者の私としては、よい意味でも悪い意味でも考えさせられた。養護学校を否定されることは、私の人生を否定されるのでは、という不安がいちばん大きかった。しかし、そうではないこと、いちばん悪いのは、特殊学校、学級を認めている社会構造、能力によって輪切りにされている教育、社会である、その中で障害者が、そして色々な人が混ざり合って、お互いの違いを認め合うことが教育であり、住み良い社会である、ということを、1週間で悟り、障解研で活動しよう、と思ったのだった。
 その中で私自身は、障害当事者がメンバーにいなかったこともあり、専ら学習は書籍をあさっていた。共産主義や、西洋・東洋思想なども、自分なりにかじったつもりだ。そこで思ったことは、一般学生との意識の違いだった、障解研に出会って初めて「大学で勉強する意味」も考えた。それは一言でいえば、私に「よく考えること」の大切さを教えてくれた。しかも私は「数学」という学問に魅かれていたので、論理的に考えることにあこがれる人間になった。
 活動自体は、障害者問題を考える健全者とつきあったこともなかったし、不安もあったが、それなりにやってきたつもりだ。毎年2,3名は入ってくることから、考える人も少しはいるんだな、と思った。私も個人的なつながりで動くことが多いが、みんなもそうなんだろう、きっと。その辺で障解研として何かやりたいとも思うが、具体的なことは、これから煮詰めていきたい。
 さて、私自身のことだが、ふと思ったことは、一人暮らしをして自由な時間、空間を持ちたい、ということだった。そのために、生まれて初めて「アルバイト(家庭教師)」というものも経験した。最初はやっぱりドキドキしたが、受け入れ先から「私達の目標を応援してくれるのなら、障害者であろうと誰であろうとかまわない。」と言われ、内心ホッとした。こんな事が誰の口からも発せられる社会が、障害者が解放される社会への第1歩であることは間違いないと確信する。それが自信となって、多いときには週に5回のかけ持ちもして、保証金のために働いていた。そういう自信を持たせてくれたのは、障解研で共に活動するメンバーの一部に負うところが大きい。実際何かにつけて相談していたし。でも決めるのは自分自身。そういうスタンスを保ちつつ、ようやくお金も貯まり、両親も口説き(これは結構大変だったが)、最後には「味方」につけて、父親も不動産屋に連れていくようになった。不動産屋でも色々あったが、何とかマンションを見つけることができた。94年夏のことである。
 生活環境はいい、と言っておこう。経済的な面で何とか工面しながらも、暮らしが軌道に乗り始めた矢先に、地震が起きたのである。幸い、マンションは一部損壊だけで、居住可能であったが、4月まではライフラインが機能停止していたので、実家(全壊後、11月に新築)の避難先にいた。実家と連絡のとれる2週間余は、六甲デイケア、神戸大学と、転々として食料にありついていた。その時の環境衛生は劣悪であった。そのため私は、肺炎の一歩手前までいった。
 95年4月からは4回生になると共に、「Beすけっと」アルバイト職員として関わらせてもらった。3年弱の学生仲間や障害者仲間の運動を見てきて、主体的とはいえないまでも何らかの形でくっついてはいたので、自立生活センター設立の趣旨や、運営、事業目的など私なりにわかっていたつもりだ。その中で、職員が入れ替わったり、となりに「被災地障害者センター」の事務所があったりと、整理をつけるのが難しいまま、何となく事務作業をやっていたというのが正直なところだ。95年の暮れから96年の春ぐち行なった障害者問題連続講座「宝物を探そう」は正会員の皆さんをはじめとして沢山の人のおかげで思ったよりも良いものにできたことは私自身を勇気づけるものだった。
 96年度は、大学院に入学し、「Beすけっと」にもあまり関われなくなった。しかし、自分の中で、何を研究したいのかということを考えたとき、このまま数学をやっていていいのだろうか、という疑問が湧いた。それと同時に、障害者という枠にとらわれず、マイノリティの権利保障みたいな広く一般の「人権」について考えてみたくなった。そんなこんなで、同年の5月いっぱいでアルバイトをやめさせてもらうことになった。また、11月頃から、大学院の勉強も単に小手先だけのような気がして、退学の決意を固めた(現段階で手続きは未だだが)。
 現在、96年6月からアルバイトとして関わっていた「被災地障害者センター」の職員として働いている。こちらでも地域での障害者・高齢者の生活支援などを行なっているが、障害者・高齢者の潜在的なニーズは多く、障害者としての私の職場での位置を考えたとき、何を地域に残せるか、何を伝えていったらいいか、困惑することが多々ある。性格上、運動団体ではなく、ボランティア団体なのだが、私自身は障害者の自立と解放、反差別の視点を持ち続けたいし、それを「震災ボランティア」として神戸にやって来て、障害者と関わるのが初めての多くの他の職員やボランティア、地域の人に伝えていきたい。もう少し神戸で活動した後に、今までとは違う、研究活動をしてみたい〜法哲学、社会医学なんかをやってみたいと思う今日この頃〜、今の私の大きな夢である。できたら30歳を迎えるまでに…。  





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